神さますごい。
― 山口県 ―
語り 井上 瑤
再話 六渡 邦昭
むかし、むかしの大昔。
山やまには鬼がたくさん棲(す)んでいたそうな。
鬼どもは、里に下りてきては子供をさらって行く。里の人たちは、ほとほと困っておったと。
鬼を防ぐにはどうしたらよいか、と、村人たちが集まって相談ぶったが、良い知恵(ちえ)はさっぱり浮かばなかった。このうえは、神様にお助けを乞(こ)うよりしょうがなかろう、ということになったと。
村の鎮守様(ちんじゅさま)に、三斗(と)五升(しょう)七合のお餅(もち)とお御酒(みき)をお供えして、
「このままでは村に子供がおらなくなってしまいますじゃ。どうぞ、何とかして下さりませ」
とお願いした。
そしたら、七日七夜目(なぬかななよめ)に神様が現れて、
「その願い、もっともなるぞよ。子供がおらなくなったら、やがて、この村は根絶(ねだ)やしになる。そうなったらじゃ、酒好きのわしにお御酒を供えてくれる者が誰もなくなってしまう。そりゃ、わしも困る。大いに困る。
そこでじゃ、その願い、きっと叶(かな)えてやるぞよ」
といわれたと。
神様はさっそく鬼どもを集め、
「来年からは、年越しに撒(ま)く豆のなかで、芽のはえたものがあれば、その家の子供をとって食うてもよい。が、しかしじゃ、芽がはえない豆をまいた家の子供をとって食うたら、その時はじゃ、お前たちの金棒(かなぼう)をとりあげるぞよ。よいな。きっと慎(つつし)めよ」
と申し渡されたと。
村人たちはようやく安心して、次の年には年越しの豆をよく炒(い)ってから撒いたと。
ところが、村にひとりのずぼらな親がいて、年越しの豆を、よく炒らないで撒いた。
すると、さっそく鬼どもがやってきて、ずぼらな親に、
「子供を出せ、さぁ出せ」
とせまったと。ずぼらな親が、
「豆は炒ってある。芽は出やせん……はずじゃ」
というたら、鬼どもは、
「お前が撒いた豆は、これじゃ、よう見よ」
というて、手に手に持った豆を見せ、歯に歯にかんでみせた。
「これこのとうりじゃ。パリッとも、プリッとも音がせぬわい。お前もかんでみろやい」
ずぼらな親が恐(こ)わ恐(ご)わ豆を受け取ってかんでみると、豆はやわらかくて、青くさかった。
「どうじゃ、それじゃ芽が出るし、花も咲くぞ。さぁ、子供を出せ」
「子供を出せ」
「さぁ、出せ」
鬼どもは恐(おそ)ろしげな顔をして、今にも家の中に踏(ふ)み込(こ)んで来そうだと。
ずぼらな親は、
「こらえて下され、助けて下されぇ」
と、あわれな声をあげた。
そしたら、この声を聞きつけた神様が、鎮守(ちんじゅ)のお堂(どう)から飛んで来られた。
「これこれ鬼どもや、あわててはならん。それは年越しの豆ではないぞよ。この親は、まだ、わしに供えておらん。わしに供えもせん豆は年越しの豆ではない。試しに撒いた豆じゃ。
そうじゃな、ずぼらな親」
「は、は、はい。ため、ため、ためし豆でございますぅ」
「ほれ、こういうておる。もうしばらくして撒く豆が本当の年越し豆じゃな、ずぼらな親」
「は、は、はい」
「ほれ、こういうておる。お前たち、あわてずに、そのとき撒く豆をよく見るがよい。
もし、そのなかに芽のはえるのがあれば、そのときには、このずぼらな親の子供をとって食うなり、どうとも好きにするがよい。よいな。慌(あわ)てるまいぞ、慌てるまいぞ」
神様、機転(きてん)をきかせて、ずぼらな親の子供を助けられたと。
大昔にこんなことがあってからこっち、年越しの豆は、これこのとうりに炒りました、と先(ま)ず神様にお供えをして、そのあとで、
「福は内、鬼は外」
というて、豆を撒くようになったそうな。
これきりべったりひらのふた。
神さますごい。
明治から大正の頃のようじゃが、池の集落に、宮地というお爺が居って、いってつ者であったと。 楽しみといえば、中央の池に出て、鯉や鮒、鰻などを釣ってきて、家の前の堀池で飼い、煮たり焼いたり酢にもして晩酌の肴にしていたそうな。
むかし、豊後の国、今の大分県臼杵市野津町大字野津市というところに、吉四六さんというとても面白い男がおった。 この吉四六さんの村の山ん中に、気味の悪い大沼があったそうな。 「あそこには、遠い昔から沼の主の大蛇が棲んじょるっちゅうぞ」 「何でも、昔は幾たりとも人が呑まれたっちゅうき」
「年越しの豆」のみんなの声
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