家の中に「しばられ地蔵、南蔵院」と明記された小物が出てきました。相当、昔のいただき物ですが、地名や由来が分かりませんでしたので、ネットで調べて分かりました。勉強になりました。 ( 70代 / 男性 )
― 東京都 ―
語り 井上 瑤
再話 六渡 邦昭
享保(きょうほ)三年というから、一七一七年、今から二六六年も前のこと、江戸、つまり、東京でおこったことだ。
本所の南蔵院(なんぞういん)という寺の境内(けいだい)に、石の地蔵様があった。
あつ―い夏のこと、越後屋(えちごや)の手代喜之助(きのすけ)が商いの木綿を背中いっぱいにかついで、南蔵院の前を通りかかった。
「あっちぇいのう―。地蔵様の前で、ちょっくら休むとするか」
荷をおろして休んでいるうちに、つい、うとうとっとしてしまった。一時して、目をさますと、そばにおいた木綿がない。そこらじゅうをさがしたがどこにもない。商売物(しょうばいもん)を盗まれたとあっては主人に叱(しか)られる。
喜之助は顔をまっ青にして番所へとびこんだ。
番所の役人がさっそく奉行所(ぶぎょうしょ)へ届けると、町奉行の大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)が直々に調べることになった。
ところが越前守、奉行になったばかりだし何の手ががりもない盗みのこと、犯人の目星などとんとわからぬ。そこで一計(いっけい)を考えた。
さっそく、役人をよび、
「いや―しくも地蔵菩薩(じぞうぼさつ)ともあろうものが、自分の前の品が盗まれたのを知らぬはずがない。ただちに地蔵を召し捕(と)り、縄をかけて、江戸市中を引き回せ」
と申しつけた。
役人は奉行のいいつけだからしかたなく、しぶしぶ南蔵院へ行くと、地蔵様に縄をかけ、大八車(だいはちぐるま)にのせると、江戸市中を引き回した。なにしろ、物見高いは江戸の町人たち、盗人(ぬすっと)のうたがいで石の地蔵様がつかまったというので、われもわれもと地蔵様の後についてゆき、果ては、どんなお裁きがあるのかと、どっと奉行所へなだれこんだ。
ころを見計らった越前守、
「門をとじよ―」
と命じ、大声で、
「天下の奉行所へ乱入するとは不届千万(ふとどきせんばん)。本来ならきつく罰(ば)っするところなれど、元はといえば木綿が盗まれたことにより生じたこと、よって、一人につき木綿一反の科料(かりょう)とする。ただちに持って参れ」
といった。町人たちはあっけにとられたがしかたがない。それぞれに木綿一反を持ってくると、自分の名前を書いて帰っていった。
越前守は喜之助を呼んで一つ一つの反物を調べさせた。そうすると、やはり、盗まれた反物がでてきた。それで、盗人がつかまり、いもづる式に、江戸市中を荒し回った大盗賊団(だいとうぞくだん)も一網打尽(いちもうだじん)となった。
地蔵様も無事南蔵院へ戻り、大岡越前守も名奉行といわれるようになったそうだ。
そして、それ以来、盗難にあうと、南蔵院の地蔵様を縄でしばって願いをかけると、必ず盗まれたものがでてくるといわれ、だれいうとなく、この地蔵様を”しばられ地蔵”と呼ぶようになった。
今では南蔵院の移転により、東京都葛飾区東水元二丁目にしばられ地蔵は移ったが、それでも願いをかける人は絶え間なく、足から頭まで縄でぐるぐる縛られているよ。
一度行って見てきてごらん。
家の中に「しばられ地蔵、南蔵院」と明記された小物が出てきました。相当、昔のいただき物ですが、地名や由来が分かりませんでしたので、ネットで調べて分かりました。勉強になりました。 ( 70代 / 男性 )
むかしあったと。 ある家の父、毎日働かなねであったと。 毎日毎日、火ノンノンとたいて、こっちの肋あぶれば、また、こっちの肋あぶる。今度ァ背中あぶるって、そやってばしいであったと。 ある時、 「貧乏の神、貧乏の神、火ィあたりに来いでぁ」 と言ったと。
むかし、紀州(きしゅう)、今の和歌山県の有田(ありた)と日高(ひだか)の郡境(ぐんざかい)にある鹿ケ瀬峠(ししがせとうげ)というところへ、惣七(そうしち)という猟師(りょうし)が猪(いのしし)を撃(う)ちに行ったそうな。 いつものように犬を使って猪を追い出そうとしたが、その日にかぎって一頭も出てこん。
むかし、あるところに一人の男があった。町へ行ってみると苗木(なえぎ)売りの爺(じ)さまがいたから、桃の木の苗木を一木買ってきて、裏(うら)の畑の端(はた)に植えたと。肥料(ひりょう)をやって、水もやり、早くおがれ、というてその夜は寝た。
「しばられ地蔵」のみんなの声
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