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しなのきんぱい
『信濃金盃』

― 長野県 ―
語り 平辻 朝子
再話 六渡 邦昭

 むかし、信濃(しなの)のある村の坂の上にポツンと一軒家(いっけんや)があり、ひとりの婆(ばば)さが住んでおった。
 婆さは男衆(おとこし)が呑(の)む酒を一口呑んでみたくてしようがなかったと。

 あるとき、晩方(ばんかた)からお庄屋(しょうや)さんの屋敷(やしき)で男衆の寄(よ)り合いがあった。婆さも賄(まかな)いの手伝いに呼ばれたと。
 「これはええ折(おり)じゃ。久し振(ぶ)りに旨(うま)い物(もん)と、うまくすりゃ酒も呑める」
と喜んで手伝いに行ったと。

 
 婆さが食い物やら酒やらを運んでパタパタ行き来していたら、広間の床(とこ)の間に金の盃(さかずき)が飾(かざ)ってあった。見とれていると、
 
 〽 サケノムトキャ ウツワガダイジ
   ギンノハイヨリ キンノハイ
 
という男衆の囃声(はやしごえ)が聞こえてきた。
 「これで酒を呑んだら、さぞ旨(うま)かろう」
と思うたら、つい、手が延(の)びて盃を袂(たもと)に入れてしもうた。
 入れてからハッとした。
 「何んちゅうことをした」
 恐(こわ)くなって震(ふる)えたと。


 戻そうとして周囲(あたり)をうかがうと、誰も婆さのことなど気にしとらん。
 「えい、こん盃が悪いんじゃ」
 婆さは蔵(くら)へ酒をとりにいくふりをして、酒樽(さかだる)の陰(かげ)へ隠(かく)れ、男衆が酔(よ)いつぶれるのを、じいっと待っておった。
 
 やがて、あたりが真っ暗になり、男衆の賑(にぎ)やかな声も途絶(とだ)えたころ、婆さはソロソロと這(は)い出た。そして、袂から金の盃をとり出した。また。震えて、盃をとり落としそうになったと。したが、金の盃を見ていたら、
 
 〽 サケノムトキャ ウツワガダイジ
   ギンノハイヨリ キンノハイ
 
という男衆の囃声がよみがえって、婆さはゴクッと生唾(なまつば)を飲みこんだ。
 樽(たる)から杓(ひしゃく)で酒をひと掬(すく)いし、金の盃にそそいだ。
 蔵の中にもれてくる月明かりに、金色に澄(す)んだ酒は婆さをしびれさせた。


 まずひとなめ。酒がツーッと喉(のど)を下っていった。
 「ウーン、いわれぬ、いわれぬ」
 さぁ、それからが大変。
 ひとなめが一口。一口が一杯。
 とうとう杓で呑みはじめた。

 グイグイゴクゴク、グイグイゴクゴク。
 樽の酒は、半分がとこ婆さの腹(はら)の中に入っちまった。
 婆さは、樽のかたわらで大嚊(おおいびき)をかいて眠(ねむ)りこけたと。
 やがて、明け方の寒さで目を覚ました婆さ、
 「はて、ここは……」
といいながらぐるりと見廻(まわ)すと、樽のふたと杓が落ちてあり、金の盃まで転がっとる。半分がとこ空になった酒樽を見て、ようやく夕べのことを思い出したと。


 婆さは、恐くなって蔵からとび出した。
 我家(わがや)へ逃(に)げ戻(もど)ろうとして坂を駆(か)け上がっていたら、石につまづいて転んだ。そのひょうしに、袂から金の盃が飛び出てしもうた。

 金の盃は、坂道をコロコロ、コロコロ転がって行く。
 婆さ、あわてて追(ぼ)っかけた。
 「サカズキャ トマレ」
 「サカズキャ トマレ」
 坂道を駆け下りながら、そう叫(さけ)ぶと、そのたんびに、金色の花がパッ、パッと咲(さ)き出た。
 金の盃は、転がって、転がって、転がって、こともあろうに、寄(よ)り合いがあったお庄屋さん の屋敷の前で、ピタリと止まった。
 婆さは、その屋敷の庭前(にわさき)に、ヘナヘナと腰(こし)をおとしてしもうた。
 騒(さわ)ぎを聞きつけた男衆は、金色の花を大喜びしてむしりはじめた。
 なにしろ、まだ酔っぱらってモウロウとしている男衆には、金の盃がたくさん転がっているように見えたもんだ。


 そのかたわらで、婆さはいつまでも、
 「サカズキャ トマレ」
 「サカズキャ トマレ」
とつぶやいておったと。
 もう、とっくに止まっているのに。
 
 そればっかり。

「信濃金盃」のみんなの声

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