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およねとわさうちじんく
『およねと沢内甚句』

― 岩手県和賀郡沢内村 ―
語り 井上 瑤
話者 石川 ツナヨ
再話 武田 礼子
整理 六渡 邦昭

 ここは岩手県※和賀郡(わがぐん)沢内村(さわうちむら)ですがの、沢内の新町(しんまち)に、明治維新(めいじいしん)まで年貢米(ねんぐまい)納めるお倉があったのス。
 オレの母方の祖父(そふ)が米を計る役目した人だったずし、そのまた父親が、沢内じゅうの石高(こくだか)を筆で帳面(ちょうめん)につける人だったど。
 どれくらいの厚さの帳面だか知れねぇが、沢内じゅうの石高を三回書けば、一冊の帳面で書ききれなくて、三回書くごとに一冊ずつ重ねで置くのだったそうだ。

※和賀郡沢内村新町:現在は、和賀郡西和賀町沢内新町

 
 沢内は、和賀の仙人山(せんにんざん)の仙人ガゲだが、南部藩(なんぶはん)の「隠し領地」とも言われでだわけヨ。沢内じゅうで三千石納めるのに、豊作の年はなんとかして納めたど。
 ところが、天保(てんぽう)四年、一八三三年の大飢饉(だいききん)のときは冷害で、三千石どころか米一粒も実らなかったど。草や木、犬や猫も食って生きたすべ。ある母親は、吾(わ)れの赤子抱いていて、赤子の手かじったほど、食う物がなくて、困った凶作の年だったと。
 それでお倉米納めかねるから、お倉米の代わりに、娘を殿様に差し出す相談がはじまったど。村じゅうの集まりで決まり、村一番の美人、差し上げることになったど。
 沢内じゅうで一番のいい女となったら、和賀川の向かいの新山(にやま)というところに、およねという名の娘が居たはんで、それにすることになったんだど。

 
 そしたら村一番のいい娘のおよねには、すでに新佐(しんざ)という許婚(いいなずけ)があったすべ。ところが、その約束もなにも、周囲(まわり)の者にむりやり取り消されてしまい、身代りおよねは、深山(みやま)の大志田(おおしだ)のしだ小道を泣き泣き新佐と別れることになったど。

およねと沢内甚句挿絵:こじま ゆみこ

 
 和賀川ぞいの大志田から貝沢(かいざわ)通って、大木原(おぎわら)通って、盛岡に通じていた駕籠(かご)も通らねぇ道あったし、少し広い道で馬道になれば、アブがモレモレどいるところで、アブに食い殺されるような峠道、三里も四里も歩いて、およねは連れて行かれたど。
 『沢内甚句(さわうちじんく)』にも歌われているすべ。

 〽 沢内三千石 およねのでどこ
  升(ます)で量らねで 身ではかる

 というのは、その時の歌なわけヨ。
 和賀岳ながめながら、山伏峠(やまぶしとうげ)越えで、新佐とおよねは、恋も千切れ千切れになってしまったわけヨ。

 
 新佐だか村の若者だか、はっきりわがらねども、およねをあきらめきれなくて、およね地蔵(じぞう)様を彫(ほ)って、道ばたに祀(まつ)ったど。
 今は沢内村太田(おおた)の浄円寺(じょうえんじ)に祀られ、ずっと供養(くよう)されでいるわけだ。
 沢内の人だぢは、春ニシン買って、秋はハダハダ買って食ったもんだすべ。馬道で山の峠まで行って、それでも左草(さそう)の人だちは馬も通れない沢道で、わらじばきで通ったが、みんな秋田の六郷(ろくごう)か横手(よこて)に行って買物したわァけ。
 むかしからこんなふうに秋田とずっとつきあいがあったから、およねは、秋田美人でもあったべか。
 十六乙女と新佐の話は、村を救ってくれだ悲しい『沢内甚句』の歌として歌われつづけたものだすべ。

 どんとはれ。

 
およねと沢内甚句挿絵:こじま ゆみこ

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この話は、民話というよりは伝説ですね。 ここは「民話の部屋」なので民話オンリーにしてほしいです。

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